冷血/カポーティ
2008年 07月 22日
衝撃のノンフィクションノベル。
秋葉原の事件のあと、いろいろと考えるところがあり、その筋の本格的なノンフィクションは怖すぎるので、これを読んでみた。
これもやはり怖かった。
しかし、素晴らしいのはその構成と、あくまでも家族なりの人間関係を丁寧に調べ、かつ書き、自身の直接的な意見や誘導も感じられない、ノンフィクションの実直さにもあると思う。たぶん、これに影響を受けたミステリー作家はごろごろいるだろう。
キングだってきっと影響受けてるな.絶対。1965年の作品でありながら、まったく古さを感じない犯罪と犯罪者は、今の日本のあらゆる状況を考えても違和感も少ない。
ただ、大変驚いたのは、カンザスの立派な農場主の一家が一糸の理由もなく、強盗と思われるものに惨殺されたあと、殺されたクラッター夫人の兄が、家族を代表してと思われる、次のような嘆願を書いた書簡が、新聞の1面に大きく掲載された、というくだり。
「〜もう済んでしまったことでありますし、別の命をとったところで、何が変わるというわけではありません.そのかわり、神の御心に従って、許してあげようではありませんか。心に恨みを抱くのは正しいことではありません。犯行に及んだ人間にしても、まったく平然と生きて行くのは至難の業だということがわかるでしょう。彼の心の平穏は、神に許しを請うときにしか訪れません。それを邪魔することなく、彼が平穏を見いだすように祈ろうではありませんか」
たぶん、これがあったからこそ、このノンフィクションノベルは成立したのではないだろうか。本当に被害者家族をここですっかり封印することができたのも、このためだと思う。
これは、すごい。
その他、犯人二人の人生が余すことなく書き込まれ、彼ら二人がどうやって捕まるまで暮らし、捕まり、自白し、死刑囚としてどのように過ごし、最期がどう訪れたかまで、しっかりと描かれる。
そんななかで、最初の頃に克明に、その番までの被害者家族のこと、その事件が起こる寸前までのこと、そして、その事件でいかに周りの人たちが傷が塞がるまでを生きたかを書いている。殺された少女のボーイフレンドの傷心、彼女の親友の思い。ことさら感傷的でない筆致がむしろ、少年少女に起こった残忍な体験を思わせ、しかし、それも上記の家族の対応があってこそ、長い時間をかけながらも普通の生活を得られたのではと。
さて、犯人の二人についても、非難するために書いているわけでない、克明な生い立ちや家族関係などの描写は、読者に対して、残念な事件の極悪人の面でない部分を理解させることを可能にしている。
(犯人のペリーが牢外のリスを餌付けして、一緒に過ごすところなどは、「グリーンマイル」の例のネズミを思ってしまった)
そして、裁判。
裁判は、果たして公正か? そんなはずもない。
しかも、1965年の話だ。この小説発表後、どれほどアメリカの裁判が変わったかは?だけれど。今の日本の法廷と大変だぶる。まだ、ここの手前あたりにいるのだな、日本は。
精神鑑定についての興味深い報告や論文も詳しく書いている。しかし、これは、実際の法廷では、検事の上手なもって行き方で、発表されることはなかったものだ。
そんな鑑定のいくつかの報告の中に、興味深い一節がある。
「殺人者が一見、合理的で首尾一貫し、抑制が利いているようでありながら、その行為が奇怪で無意味としか思えないような場合には、難問を呈することになる。〜・・・〜概して、このような個人は、原始的な暴力の表出を可能ならしめる著しい自制の喪失に陥りやすい。それは、今は意識にのぼらないが、以前に外傷を受けた経験から生じるものである」
まさに、原始的な暴力については、何を今更、キングが描いた小説だけでもなく、学術的にも基本的な理解なのだなと、改めて確認した次第。
切れやすいとか、簡単に言うけれど、それを許してしまう、自制の欠落に、心の外傷が大きく影響していること。そう考えると「外傷」を考えることは、大変難しいということだけは、よくわかる。
大人には自分で考えなさい、耐えなさい、打ち克ちなさいとしか言えないが、子どもにとっては、のっぴきならない「外傷」を受けることほど、悲惨なことはない。
果たして、犯罪のない世界は作れないとは思うが、普通の子がむやみに「外傷」を負わされるような、環境を少しでも少なくしてゆくのにはどうしたらいいか。
そういうことを考える余地だけは、まだまだあるはずだと思う。
マスコミもその辺をもう一度しっかり認識して取材や放出を考えるべきだろう。
秋葉原の事件のあと、いろいろと考えるところがあり、その筋の本格的なノンフィクションは怖すぎるので、これを読んでみた。
これもやはり怖かった。
しかし、素晴らしいのはその構成と、あくまでも家族なりの人間関係を丁寧に調べ、かつ書き、自身の直接的な意見や誘導も感じられない、ノンフィクションの実直さにもあると思う。たぶん、これに影響を受けたミステリー作家はごろごろいるだろう。
キングだってきっと影響受けてるな.絶対。1965年の作品でありながら、まったく古さを感じない犯罪と犯罪者は、今の日本のあらゆる状況を考えても違和感も少ない。
ただ、大変驚いたのは、カンザスの立派な農場主の一家が一糸の理由もなく、強盗と思われるものに惨殺されたあと、殺されたクラッター夫人の兄が、家族を代表してと思われる、次のような嘆願を書いた書簡が、新聞の1面に大きく掲載された、というくだり。
「〜もう済んでしまったことでありますし、別の命をとったところで、何が変わるというわけではありません.そのかわり、神の御心に従って、許してあげようではありませんか。心に恨みを抱くのは正しいことではありません。犯行に及んだ人間にしても、まったく平然と生きて行くのは至難の業だということがわかるでしょう。彼の心の平穏は、神に許しを請うときにしか訪れません。それを邪魔することなく、彼が平穏を見いだすように祈ろうではありませんか」
たぶん、これがあったからこそ、このノンフィクションノベルは成立したのではないだろうか。本当に被害者家族をここですっかり封印することができたのも、このためだと思う。
これは、すごい。
その他、犯人二人の人生が余すことなく書き込まれ、彼ら二人がどうやって捕まるまで暮らし、捕まり、自白し、死刑囚としてどのように過ごし、最期がどう訪れたかまで、しっかりと描かれる。
そんななかで、最初の頃に克明に、その番までの被害者家族のこと、その事件が起こる寸前までのこと、そして、その事件でいかに周りの人たちが傷が塞がるまでを生きたかを書いている。殺された少女のボーイフレンドの傷心、彼女の親友の思い。ことさら感傷的でない筆致がむしろ、少年少女に起こった残忍な体験を思わせ、しかし、それも上記の家族の対応があってこそ、長い時間をかけながらも普通の生活を得られたのではと。
さて、犯人の二人についても、非難するために書いているわけでない、克明な生い立ちや家族関係などの描写は、読者に対して、残念な事件の極悪人の面でない部分を理解させることを可能にしている。
(犯人のペリーが牢外のリスを餌付けして、一緒に過ごすところなどは、「グリーンマイル」の例のネズミを思ってしまった)
そして、裁判。
裁判は、果たして公正か? そんなはずもない。
しかも、1965年の話だ。この小説発表後、どれほどアメリカの裁判が変わったかは?だけれど。今の日本の法廷と大変だぶる。まだ、ここの手前あたりにいるのだな、日本は。
精神鑑定についての興味深い報告や論文も詳しく書いている。しかし、これは、実際の法廷では、検事の上手なもって行き方で、発表されることはなかったものだ。
そんな鑑定のいくつかの報告の中に、興味深い一節がある。
「殺人者が一見、合理的で首尾一貫し、抑制が利いているようでありながら、その行為が奇怪で無意味としか思えないような場合には、難問を呈することになる。〜・・・〜概して、このような個人は、原始的な暴力の表出を可能ならしめる著しい自制の喪失に陥りやすい。それは、今は意識にのぼらないが、以前に外傷を受けた経験から生じるものである」
まさに、原始的な暴力については、何を今更、キングが描いた小説だけでもなく、学術的にも基本的な理解なのだなと、改めて確認した次第。
切れやすいとか、簡単に言うけれど、それを許してしまう、自制の欠落に、心の外傷が大きく影響していること。そう考えると「外傷」を考えることは、大変難しいということだけは、よくわかる。
大人には自分で考えなさい、耐えなさい、打ち克ちなさいとしか言えないが、子どもにとっては、のっぴきならない「外傷」を受けることほど、悲惨なことはない。
果たして、犯罪のない世界は作れないとは思うが、普通の子がむやみに「外傷」を負わされるような、環境を少しでも少なくしてゆくのにはどうしたらいいか。
そういうことを考える余地だけは、まだまだあるはずだと思う。
マスコミもその辺をもう一度しっかり認識して取材や放出を考えるべきだろう。
by shes_inn
| 2008-07-22 23:26
| 本